久慈 氏の今日のまとめ龍造寺 高房
なんだかすごい名前ですね。
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龍造寺 高房(りゅうぞうじ たかふさ、天正14年(1586年) - 慶長12年9月6日(1607年10月26日))は肥前の龍造寺政家の嫡男。正室は鍋島直茂の養女瑞光院(実は鍋島茂里の長女)。
父龍造寺侍従政家が病弱だったため、1590年にわずか5歳で家督を相続した。しかし、肥前佐賀藩の国政は豊臣秀吉の承認の下、重臣の直茂とその子勝茂に実質的に握られる。当時の佐賀藩は、名を龍造寺氏が持ち、実を鍋島氏が握るという暫定的な二重統治体制となっていた。政家はじめ龍造寺一門は、肥前の支配権を龍造寺氏に戻すべく、高房成人後藩政を高房に戻す旨の請文を直茂に書かせるとともに、高房を直茂の養子にするなどの手を打っていたが、逆に、朝鮮出兵や関ヶ原の戦い等を通じて鍋島氏の肥前支配はより強固なものとなり、これらの措置の意味は実質的に失われていった。
高房は、直茂の孫娘を娶り、諸大夫(従五位駿河守に任官)として徳川幕府に従う身となっていたが、1607年、幕府に参勤中、江戸で病に罹って急死したと言われている。しかし、これには鍋島氏に実権を握られて憤慨し、失望した高房が、妻を殺害し、自らも死のうとしたが果たせず、そのときの傷がもとでのちに亡くなったという説がある。高房の死後わずか1ヶ月後には、肥前に隠居していた父政家も急死。徳川幕府は肥前佐賀藩龍造寺家の家督について国元から龍造寺一門を呼んで質したが、一門は勝茂こそ佐賀藩を継ぐに相応しいと答え、結局、鍋島直茂の子、勝茂が、龍造寺家の家督を引き継ぐ形で佐賀藩35万7千石を手にすることとなった。この相続には、直茂が、高房の祖父である龍造寺隆信と義理の兄弟関係にあり、龍造寺一門とも言えることも与ったかと思われる。
なお、この高房の遺児(庶子であり、高房自身もその存在を知らなかったとされる)に伯庵季明がおり、龍造寺季明と名のり、龍造寺氏の当主として肥前佐賀藩を鍋島氏の手から取り返すべく再三幕府に訴え出たが、結局は認められるところとならなかった。伯庵は、正保元年(1644年)、会津藩保科肥後守正之にお預けの身となり50人扶持を給された。後に100人扶持となり、さらに屋敷を与えられて300石を給されたとの記録もある。寛文6年(1666年)伯庵死後の龍造寺氏は、遺児庄之助が会津松平家藩士となり、幕末の戊辰戦争時の当主である国太郎まで続き、さらに現在に至っている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』